暇つぶしに夢日記を形態素解析してみた。

 

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 僕はここ7、8年くらい夢日記を付けていますが、そろそろ振り返って分析してみたい、でも一つずつ読んでいくのは面倒くさい…ということで、形態素解析にかけて頻度表を作ってみることにしました。ちなみにツールchasenを使いました。
データはevernote夢日記をとりはじめた2013年8月から2015年2月までだけですが、なんと4万字も! 中編小説ぐらいありますね。
 
 まず名詞の頻度表から、みなさんが気になって仕方がないであろう「セックス」というワードをみてみましょう。
結果は…出現確率48位!
あれ、低い…のか? 個人的にトップ10くらいには入るのではないかと勝手に予想していたので内心驚きです。
 
 とりあえず名詞の表の上位だけ貼っておきますが、これだけみてもなんだかよくわからないので、他のは省略します。
 

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 適当に名詞の上位を並べると、「僕」「人」「それ」「家」「男」「女性」「女の子」「車」「部屋」「トイレ」「道」「敵」…敵?
詳しく見てみると、僕はやたらと夢の中で敵と戦っていました。敵はゾンビだったり姿がよくわからなかったりする上に、爆弾やら銃やらビームやらを使ってくる恐ろしいものだったりします。果てには、駐車場料金値下げの看板を盗んだりするらしいです。よくわからないですが恐ろしいですね。我ながら夢の中くらいもっと幸せでいて欲しいものです。
 
 おそらく自分はエロい夢ばかりみているんだろうなとぼんやり考えていましたが、動詞の頻度表をみてびっくりです。逃げる系、殺す系の動詞の多いこと多いこと。
どうやら僕は夢の中で、鬼、警察官、暗殺者、ヤクザ、超能力者、蜂、ゴローニャと色んなものに追われて必死に逃げていたようです。まあそりゃあ誰でもゴローニャに追われたら逃げますよね。あいつらすぐ爆発するし。
お次の殺す系は、殺し殺されで一方的な被害者というわけでもないですが、どちらにせよ剣呑なことに変わりはありませんね。
 
 何かこう、楽しそうな動作をしている夢はないのかと探していると、「食べる」という動詞が上位にありました。
若干嫌な予感もしますが、夢の中で食べたものをピックアップしてみると、「A5ランクの肉」「中華料理」「そば」…と出てきて、なかなかいいものを食べてるじゃないか、と安心しましたが、続きを見ていくと…
「昨日の残りのそば」「芋虫」「毒きのこ」「ムカデのような植物(ぶどう味)」「ゾンビの口の中から奪ったカレー」でした。
なんで昨日の残りのそば食ってるんだよ!新しいやつ食えよ!とツッコミたくなりますが、そんなことよりも「ゾンビの口の中から奪ったカレー」が衝撃的過ぎてむしろアタリのように思えてきました。衛生的な面からみて大丈夫なのでしょうか。そこまでして食べたい美味しいカレーだったのでしょうか。ポジティブにそう捉えることにしましょう。。。
 
 さて、今回解析してみて初めて分かったのですが、どうやら僕は思いのほか憂鬱になるような夢を多く見ているようです。フロイト先生に分析してもらいたいものです。まあどちらにせよ、僕はその日の夢が楽しいものであれ恐ろしいものであれ、朝起きた時には「今日も面白い夢だったな」と思うタイプなので、これからも夢を見続けたいと思います。
 

舞城王太郎「淵の王」

 物語には二つの機能がある。それは、可能世界を縮減する機能と、拡張する機能だ。

 
 縮減機能は、例えば恋愛について考えてみると分かりやすい。恋愛は、この世界には何万人何億人も人間がいるにもかかわらず、「この人しかいない!」と錯覚し、可能世界を狭める役割を果たす。
 それに対して拡張機能に関しては、SFを例にするのが良いだろう。SF的想像力は、この世界にはホモサピエンス以外にも知的生命体がいるかもしれないと考え、可能世界を広げていく役割を果たしている。
 
 この二区分で言うと、舞城王太郎は物語の縮減機能を描く作家だった。九十九十九や成雄シリーズに代表されるように、数ある世界の中から一つの世界を選ぶ、数ある自分の中から一つの自分を選ぶというような主題で多くの本を書いているからだ。
 
 ところがこの「淵の王」では、この縮減機能と拡張機能の間で揺れ動き、どちらかに偏らず、中途半端であり続けることが人間なのだという新しい観点が示されていた。
 縮減機能と拡張機能の間の揺れ動きは、そのまま「淵の王」の各章に対応していて、最初の中島さおりの章は、縮減機能に成功する話と言える。なぜならば、さおりは数ある道の中から、「光の道を歩」むことができたからである。
 次に堀江果歩の章は、拡張機能が悪い方向へと働いてしまう話だ。「怖い想像が人間に悪い影響を持」った結果として、果歩は「穴」に食われてしまったからだ。
 最後に中村悟堂は、そのどちらにも振り切れず、「中途半端」であった。そして、だからこそ彼は「穴」に食われずに生き残ったのである。
 
 さてここで、「淵の王」の語りの形式について言及しなくてはならない。
 この小説は、舞城にしては珍しく二人称で書かれていた。惜しまれることに私は、過去の舞城の本達を全て実家に置いてきてしまったので、ちゃんと確認をとれていないが、恐らく初めての試みだろう。
 
 しかしこれは二人称小説と言ってしまうと適切ではないように思える。
 二人称小説というよりも、三人称小説が一人称小説になる過程、と言ったほうが良いだろう。「淵の王」は、語るレベルと語られるレベルで、二つの物語が相互に絡み合いながら同時進行していたのだ。
 語るレベルでは、登場人物の視点に寄生しながらでなくては生きていけず、その上物語世界には介入できないような無力な存在である語り手が、その物語世界に入り込もうとする物語が進行していたのである。
 これは、超越的な視点を占める代わりに、物語には一切関与できない三人称的な語り手が、物語の登場人物の一人となろうとする話という訳だ。つまり、ナレーターからキャラクターへの移行物語である。
 
 三人称的な語り手は、物語に入り込むことができない。個々の物語世界からは超越した、特権的なポジションにいる、仮定された存在だからだ。これは、先ほどの言葉で言えば縮減機能を決定的に欠いた存在ということになる。そんな無力な語り手が、縮減機能を獲得して物語に参与しようとするお話が展開されていたのだ。
 
 ちなみにこれまでの話を整理すると以下のような表にまとめられる。
 

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 まず「淵の王」は縦軸の一番左にある通り、語り手の物語と語られる物語の二つの次元に分けられる。そして語り手のレベルでは物語へ参与する物語が描かれ、語られるレベルでは、可能世界の縮減と拡散、そのバランスをとる物語が描かれる。
 
 それではどうして中村悟堂の章においては、語り手の参与が成功したのだろうか、という疑問が当然のように湧くが、それはまた次の機会に譲りたい。
 
 
 これ以上詳細に踏み込む事は避けて全体の話をすると、私は舞城王太郎が新しい形式を取り入れたという点で、この作品を評価している。小説は、その内容と形式が不可分に関係しているが、以前舞城は九十九十九のように、物語の縮減機能という内容を描くために、延々とメタ化させるという形式をとっていた。しかし、「淵の王」が掲載された新潮2015.1には佐々木敦氏と渡部直己氏の対談もあり、そこには、近年ではメタ小説が探偵小説と同じただのパズルになっているという批判があった。このパズルという批判は、舞城の言葉では「娯楽産業」(これを言った時は愛媛川十三名義だったけど)となるが、娯楽産業に堕してしまったメタ形式を乗り越えるために、新しい形式を取り入れようと模索し、二人称という形式をとりこんで一定の成果を得たという点は高く評価できよう。
果たして舞城は今後どんな小説を世に出すのだろうか、とても楽しみで仕方がない。
 

 

 

淵の王

淵の王

 

 

 
 

涙は、偶然に。〜愛・アムールを観て、ハネケとリンチ〜

 

愛・アムールというミヒャエル・ハネケ監督の映画を観ました。

名作です。

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僕はお年寄りが登場する映画に弱く、たとえば楢山節考を観て大泣きするような人間だったため、この映画も痛く感動しました。ちなみに始まって3分くらいの、アンヌが脳の障害でほうけるシーンで既に泣いていました。

この映画については老後の介護問題、痴呆症についてなど話題は山ほどありますが、その中でもミヒャエル・ハネケ監督の心理描写を一切描かず、事実描写を坦々と撮り続ける、その手法が印象深かったため、それについて書きたいと思います。

 

事実描写と心理描写

そもそも何が事実描写で何が心理描写かの区分は実際にはとても難しいです。

涙を流しているシーンは、その人の悲しみを表現している心理描写なのか、それともただ涙を流したという事実を描写しているだけなのかは、その映像だけからは判断できません。

そのシーンが心理描写なのかどうかということを、どうして映像のみから判断することができないのでしょうか。

それは、心理描写が本来、映像に映らないものを映すことだからです。

心理描写とは、観客がある映像に共感を示し、何かしらの感情を自分の中に再現した時に初めて、心理描写が成立したと言う事ができます。

つまり何が心理描写になり得るかは観客次第、観客の解釈次第ということになります。

 

解釈体系の多様化

観客はそれぞれ、自分の解釈体系を持っています。

会社員の人は労働問題を敏感に感じとり、奴隷映画とかにより共感するかもしれません。

奴隷を観ると「これは俺だ。。。」と感じ、金持ちを観ると「こいつは敵だ。。。」と考えるかもしれません。

今まさに恋に落ちている人は、より多くのものに愛を見い出すことでしょう。

ただ目線があっただけのシーンでさえも、愛の芽生えと考えるかもしれませんし、空や海からも愛を感じ取るかもしれません。

戦争経験者は戦争を忌むべきものと解釈するかもしれませんが、戦争を経験した事のない人は、あこがれの対象として解釈するかもしれません。

とにかく人々の解釈体系は多様化し、それぞれ映画の中に見いだすものも異なります。

そのように乱立した解釈体系の中では、ここでは悲しんで欲しいと工夫を凝らした心理描写でさえ、笑いを誘うものになってしまう場合さえあるでしょう。

 

記号のないハネケ

このような状況において、より多くの人の感情を揺さぶるにはどのような手法をとればよいでしょうか。

それは、当然のように聞こえますが、より多くの人に、それぞれの解釈が許されるように設計することです。

より解釈を開いて行く手法には二つの方向性があります。

その一つ目がミヒャエル・ハネケ監督の手法です。

たんたんと、事実描写に徹するのです。

事実描写に徹することで、主人公のジョルジュはここでどういう風に感じただろうか、と観客が勝手に、自分自身の観たいものを観ます。

事実描写に徹するということは、換言すると、記号操作をしないと言うこともできます。

記号の排除ゆえに、あらゆる記号を読み込ませることができるのです。

愛・アムールでは、なぜだかわかりませんが、重要な場面で、家の中に入ってきた鳩を捕まえるシーンに数分を費やしています。

それがなぜか、どう思って鳩を捕まえたのか?

観客は自由に、自分の好きなように解釈すればよいのです。

 

記号だらけのリンチ

二つ目は、その先鋭的な例として、デイヴィット・リンチ監督の名前を挙げたいと思います。

デイヴィット・リンチ監督の映画は、とてもシンボリックなものとして有名です。

例えばイレイザー・ヘッドでは、奇形児や、脳みそで作った消しゴムつき鉛筆とかなにがなんだかよくわからないものがでてきます。

この手法では、より抽象度を挙げた記号操作によって、解釈の幅を広げることが試みられています。

映画からは離れますが、小説家のカフカの方が分かりやすい例だったかもしれません。

例えば「変身」、主人公が朝起きたら虫になっているのは、引きこもりの心象風景だとか、いやいや実際に虫になったのだよとか様々な解釈が成されています。

 

涙は、偶然に

解釈可能性へと開くようシンボルを操作するリンチと、解釈可能性へと開くようシンボルを排除するハネケ。

この二人のどちらの手法も好きですが、どちらがより感動したかと問われると、今回僕は後者を選びます。

それはただ単に僕の老人ネタを観ると自動的に泣くという解釈体系に偶然一致しただけかもしれませんが。

ですが、この偶然一致させる可能性を挙げることこそが、この二人の試みなのです。

その中で、僕は偶然、愛・アムールを観て涙を流しただけなのです。

 

出色のユートピア映画、「カレ・ブラン」

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これは良いユートピア映画ですね。
上司からの無理難題に体を張って応える従順な社畜さんたちの健気な姿に観る人は心打たれることでしょう。
会社のためとあらば仲間だって蹴落とす、そんな一途さに僕は感動しました!
いつもつるんでいた仲良し4人組も、会社のためとあらば仲間をボコボコに、、、素晴らしい!

ちなみにその会社とは食用人間を育てる会社です。うーん、、、なんてエコなんでしょう!
実に無駄がない合理的な考えですね。
出来る限り会社のために働いてもらって、使えなくなったら肉になる。文字通り骨の髄まで会社のために。
日本はもう少しでこのユートピアにたどりつけそうですね。よきかなよきかな。

もちろん会社のためになるのは自分の体だけではありません。
その辺も大丈夫、子供さえも会社のために生むのです!
なんと手厚いカバーでしょう。これだけ福利厚生が手厚い会社はみたことがありません。
安心ですねえ。もう子供の就職先で頭を悩ませずに済みます。いい会社に入れるためにいい大学に行く必要もありません。いい大学に行くための塾にも莫大なお金をつぎ込まなくてもよいのです。

そして、自慢の子供は大好きな会社のために働くのですから、もちろん出生したことを隠してはいけません。それは犯罪となって厳しく取り締まられます。まあ普通に考えると大好きな会社に反するようなそんな愚かな行いをする人はいないでしょうがね。

 

ところがこの愛すべき楽園に歯向かおうとする人がいるんです。
いつの時代も狂人というものに悩まされるものなんですね。
というのも主人公フィリップの奥さん、マリーがその人です。
こんな狂人を家庭に抱えたらさあ大変。フィリップに災難が降り掛かる事は火をみるよりも明らかです。
実際にマリーは人を轢き殺してフィリップと一緒にその会社を脱走してしまいます。
こんなにも恵まれた環境から逃げ出すなんて、フィリップまでどうしてしまったんでしょう。
狂気は伝染するということなんですね。フィリップも可哀想に・・・

フィリップやマリーは少しおかしなことを考えすぎてしまったようです。
でも大丈夫、会社に入って組織に属すればみんな考える事をやめます。
これでもう何も問題はありません!


どうですか?あなたも入社したくなってきたでしょう。
私は早くこのような未来がくることを願ってもやみません。

この映画のストーリーは公式に8割近く書いてあります。
そちらもご参考までにどうぞ。
公式サイト▶︎http://carreblanc-jp.com/ 

都知事選で疲れた。

 

基本的に僕は他の人がそうであるように今回の都知事選にうんざりしているし、都知事選を分析したニュースやらブログやらにもうんざりしている。というよりもあまり政治に関心がないから仕方がない。
今回の都知事選では小泉・細川ペアが脱原発のみを争点にして、「東京都知事脱原発の問題をそれほど大きく持ち込むのはお門違いだ!」的な記事を多くみかけた。

確かにその通りだろう。別に東京に原発があるわけでもないし、できるわけもない。関係あるとしても原発に依存しないよう省エネを心がけた都心のエネルギー政策ぐらいだろう。


だが少し待って欲しい。


前回の猪瀬氏がぶっちぎりで当選した都知事選では、逆に原発問題について扱われなさすぎて、「もう原発問題を忘れたか!」とか「原発問題を扱うと反感を買うから触れないのか!衆愚制だ!」みたいな話が出ていなかっただろうか。
原発問題を争点にしても怒るし争点にしなくても怒るしもうよく分からない。(小泉・細川のような原発ワンイシューは端的に間違いだが)


疲れた。


こういう政局分析のようなものはたいてい世論調査通りになるし、原発問題について掲げたから通ったとか通らなかったとかなんかもう現状をそのまま言ってるだけなので、意味があるようにも思えない。


ただ今回僕がその疲れた体に鞭打ってブログを書く気になったのは家入一真氏についてだ。
家入氏に関しては、インターネットによる動員をうまく使いこなす上に若者層にそれなりに知名度もある(多分)彼が、どのくらい得票できるのかということに興味があったのだが、結果からしてドクター中松氏とかマック赤坂氏を超したのだから善戦と言っていいだろう。
まあそれは他でも色々と書かれているし、僕が言いたいのはもう少し別のところにある。
それは、家入氏が「真面目に立候補してないから落ちて当たり前だ!」というような発言に違和感を覚えたからだ。
別にいいじゃん。真面目じゃなくても。確かに立候補した理由が「出馬をツイートしたらたくさんRTされて引っ込みがつかなくなった」など不真面目極まりない。しかし他の人だって実際はお金のためとか名誉のためとか自分本意の理由で立候補している可能性もあるし、立候補者の動機は割とどっちでもよく、その提言する政策で判断するべきではないだろうか。
(家入氏は政策もみんなで作ろうというものだったから提言しているわけではないが、その試みは面白い)
そんなことを言ったら細川氏だってぽっと出だし、それで別にかまわないのではないか。

そもそも政治家になるのにそんなにも下準備が必要だとしたら、本来ある目的を叶えるため、ある政策を実現させるための手段が政治であるはずが、政治家になるための手段というものが必要になってきて、本末転倒ではないだろうか。
まあぽっと出が増えすぎたら混乱することは容易に予想できるが。今回も名前も上がらないような候補者が何人もいたしね。
でもそれで本来の政治を見失うのはおかしな話だし、制度をうまく変えるべきだと思う。誰か頭のいい人考えてください。お願いします。

なんかもう書く事に疲れてきたので何が言いたかったのか一言でいうと、
政治ってよくわかんないし疲れるから、そんな政治に関して意識高くあれみたいに言われてもむりだよーということである。
家入氏からはこれと同じにおいを感じたから、東京都民でもないのにちょっと気になってたのだ。

ハンナアレント「人間の条件」について 2

2章 公的領域私的領域

アレントの定義では、公的領域私的領域は以下の通りである。
公的領域・・・世界に関わること。政治。異なるもの同士の平等。
私的領域・・・家族の領域。生命の維持に関わる領域。経済的な領域。同一性。

社会的なるものの勃興

上記の分類のように、本来私的領域に収まっている経済的な領域が、近代においては国家全体の問題となった。
それにより、私的領域が全域化してしまい、公的領域が失われてしまったとアレントは述べる。
本来私的領域は家族の領域であったが、その家族が一つの国家全体にまで肥大化し、「社会」と呼ばれる新しい現象を構成するようになった。
社会的な領域が勃興すると、公的領域が失われるのであるから、活動は存在し得ない。
そして、空いた活動のポジションに「行動」が取って代わった。

行動

行動とは、人間の予測可能な行為、統計的に分析可能な行為、経済学的に分析可能な行為である。
それは需要曲線と供給曲線が一致するように、ただ一つの結果へと導かれる行為である。
アレントはそれこそ大衆社会が全体主義へと陥る過程だと強く批判している。

これは現在の日本にもとてもよく当てはまると思う。
経済をうまく回すことに成功している自民党の独裁になっている、と言いたい訳ではない。
アレントは、このように社会が全域化した国家では、人格的支配から官僚制(無人支配)に移行すると指摘している。
なぜならば、行動を支配する原理はただ単に経済効率性だけであるからだ。効率的でありさえすれば、支配者は誰でもよくなることが自動的に導き出される。。
この状態こそ今の日本に最もよく当てはまっているのである。
アベノミクスなど経済問題だけが政治の争点となり、うまく政治を回すことができるのであれば、支配者は「誰であってもかまわない」。
日本の度重なる首相の変更や、政党に対する支持率の低さ、その上での選挙率の低さなどがそれを表している。
(通常現在の政党に不満を持っていれば、それを変えるために投票に行くはずである)
ついでに官僚主導の政治もね。
現在の首相は安倍首相であるが、それも変わりがいないからというだけであろう。

3章 労働

古代では労働は奴隷の仕事とされて、人間的ではなく、忌むべき物だとされてきたけど、
やっぱりお腹が空いたら何か食べるという生命の循環リズムは、生きているリアリティを感じさせるし大事だよねー。
というような事を述べている。

これからははしょりモードで書く事をご許しくださいw

4章 仕事

仕事をするとき、例えば机を作ろうとするとき、こういう机を作りたいという理想像がまずあり、それを実現するための手段として材料を準備したり加工したりするだろう。
このような目的−手段カテゴリーが仕事人(工作人)の特徴だと言ってる。
工作人の考え方では、全てのものを手段としてしか見れなくなってしまうし、
行為の結果が予測可能とする点で活動とは違うよねーと言ってる。

5章 活動

活動は過程であって、結果を予測できない。
成された活動を事後的に「これはこういうことだったんだね」と説明するのが歴史家。
そして歴史家の説明によって、その人の物語(=「正体」フー)が暴露される。

まあ他にも色々書いているが、一言でいうと、活動は定義上予測できない。
そのためにその不確実性を恐れた愚かな人間たちは、活動を予測可能な仕事(製作)の領域に貶めたんだよバカヤローということである。

以上

ハンナ・アレント「人間の条件」について 1

ハンナ・アレント「人間の条件」を読んだので、その備忘録として、自分の理解を深めるために一章ずつその要約やら雑感を書きたいと思う。
僕は自分に理解できるよう分かりやすく書くし、他の人もこの本を読まずして内容が分かるよう書く事を心がけるため、暇つぶしにでも読んでいただければ幸いである。

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

 

 

第一章 人間の条件

人間の条件とは?

人間の条件!と第一章を銘打っているものの、アレントは人間の条件に明確な定義を与えていない。

というよりも、人間の条件は多岐に渡っているため、これが人間の条件だ!という断定が不可能になっている。
出生、多数性、世界など多くのものを人間の条件としつつ、更には現在地球に暮らしているからこそ存在するそのような条件も、宇宙で暮らすようになれば変化するというようなSFチックな妄想も膨らませている。
そのように決定がとても難しい人間の条件についてアレントが捻り出した定義とは、「人間は条件づけられている」ということである。人間は自分に関わるもの全てを、自分の条件としてしまう、それこそが人間の条件である、と。

しかしこれは人間の条件は、条件づけられていると言っているに過ぎず、単に同語反復である。
ここで当然のようにどうして人間は条件づけられているのか?という疑問が浮かぶが、それについては考えることは別の機会に譲り、アレントと同じ前提を受け入れよう。

 

活動の3分類

この章でアレントは人間は条件づけられているということを前提として、そんな条件づけられた人間の活動を三つに分類する。
労働・仕事・活動である。

労働

労働は自分の生命、そして種としての生命を持続させるために行われる活動である。
一例としてりんごを食べることが挙げられる。しかし人間は、いくらお腹いっぱいりんごを食べたところで、数時間経てばまたお腹がすいてしまう。だからまたりんごを食べる。このように労働は、反復性を持っている。

そしてこの労働に関する物、先ほどの例で言えばりんごがそれであるが、りんごは少し放っておくとすぐに腐ってしまう。つまり持続性がない。
この時間という概念の中で考え、それに対する耐久性というものはアレントの三分類の根本である。

仕事

次に仕事。仕事はイスを作るとか机をつくるとか、ある程度持続性があるものを作る活動である。ある程度と言ったが、正確に言うと自分の寿命よりも長い期間である。自分が死んだ後も残り続けるものを作ることが、アレントの言う仕事なのである。
今僕たちは生きている。身の回りを見てみると、先人が作ったものに囲まれている。先人が作り、そして死んでしまってもなお残り続けているものに囲まれている。それを彼女は世界と呼んだ。
人間は世界の中に生まれる(彼女の言葉では出生する)。
そして仕事をして次の世代にも世界を残す。

活動

最後に活動である。
活動は時間という条件ともう一つ、多数性という条件が関わってくる。
アレントが活動として名指すものは政治であるが、アレントが政治という時、その意味はかなり独特である。
彼女の語彙に従うと、政治とは多数性の前に姿を現すことである(出現)。
ここでは多数性を、自分とは違う考えを持った人が大勢いる空間と考えておいて問題ないだろう。
そしてそのような多数性の前に姿を現すとどうなるか。自分のとった行動が、自分が考えていた意図と違う意味でとらえられてしまう事であろう。
例えば英語が出来ない日本人がアメリカに行って麻生という元首相の名を口にしたとしよう。それを英語圏の人はass holeと聞きとること請け合いである。
そして、そのように誤認されることこそが活動なのである。
となると、活動の行為者自身には、自分の振る舞いの意味を決定することが不可能になる。
振る舞いの意味を決定する、つまりその人の活動について物語を作ることは、活動している当の本人以外の人ということになる。それをアレントは歴史家と呼んだ。
そしてこの物語が、その人は誰であるか(=「正体」フー)を決定する。
これは自分が誰であるかを模索するような実存を探る行為とは異なる。
なぜならば、先ほど申し上げた通り、活動の意味は当の活動者自身からは隠されているため、それを自分の物語として引き受けることができないからである。

どうして活動者本人は自分で活動の意味を決定する事ができないか。そのような誤認はなぜ起こるのか。
それは意味の時間的持続性に関わっている。
活動者の振る舞いは、その人自身が死ねば終わる。そしてその振る舞いの意味を伝承する作業は、必ず他の人に譲られる。
100人の村の中で活動をすれば自分だけが活動者で、他の人は全て伝承者(歴史家)である。
さて、自分対99人、どちらの方がより長く生き残るだろうか。
これは別に活動者が死んだ場合だけではない。活動者が表の舞台から立ち去るとき、私的生活に引きこもるときも同じ事である。これはまあその活動者がいないときになされる伝承のことなので、うわさ話みたいなものだ。
活動者は自分の知る由もないところでされているうわさ話に口を出す事は出来ない。
なんだかものすごく俗な話になってきたのでこの話はこの辺で辞めにしよう。
とにかく本質としては、意味の時間的持続性の活動者と歴史家間の差異が、活動者による物語の作成を不可能にしている(物語の暴露的正確)。

それでは活動は何のためにあるのか。それは多数性を持続させるためである。
これもやはり同語反復的に聞こえる。多数性は多数性のためにあると言っているようなものだからだ。
多数性は多数性のためにあるかもしれない。しかし人間が多数性を求めてしまうことは揺るがしようのない事実である。
となると、同語反復に陥らざるを得ないもの、それ以上原因を遡ることができないもの、そしてそれを求めてしまうこと、
それ自体が人間の条件なのである。

以上

(書いてから思ったが、一章の範囲を超えて説明している…まあいいか)