舞城王太郎「淵の王」

 物語には二つの機能がある。それは、可能世界を縮減する機能と、拡張する機能だ。

 
 縮減機能は、例えば恋愛について考えてみると分かりやすい。恋愛は、この世界には何万人何億人も人間がいるにもかかわらず、「この人しかいない!」と錯覚し、可能世界を狭める役割を果たす。
 それに対して拡張機能に関しては、SFを例にするのが良いだろう。SF的想像力は、この世界にはホモサピエンス以外にも知的生命体がいるかもしれないと考え、可能世界を広げていく役割を果たしている。
 
 この二区分で言うと、舞城王太郎は物語の縮減機能を描く作家だった。九十九十九や成雄シリーズに代表されるように、数ある世界の中から一つの世界を選ぶ、数ある自分の中から一つの自分を選ぶというような主題で多くの本を書いているからだ。
 
 ところがこの「淵の王」では、この縮減機能と拡張機能の間で揺れ動き、どちらかに偏らず、中途半端であり続けることが人間なのだという新しい観点が示されていた。
 縮減機能と拡張機能の間の揺れ動きは、そのまま「淵の王」の各章に対応していて、最初の中島さおりの章は、縮減機能に成功する話と言える。なぜならば、さおりは数ある道の中から、「光の道を歩」むことができたからである。
 次に堀江果歩の章は、拡張機能が悪い方向へと働いてしまう話だ。「怖い想像が人間に悪い影響を持」った結果として、果歩は「穴」に食われてしまったからだ。
 最後に中村悟堂は、そのどちらにも振り切れず、「中途半端」であった。そして、だからこそ彼は「穴」に食われずに生き残ったのである。
 
 さてここで、「淵の王」の語りの形式について言及しなくてはならない。
 この小説は、舞城にしては珍しく二人称で書かれていた。惜しまれることに私は、過去の舞城の本達を全て実家に置いてきてしまったので、ちゃんと確認をとれていないが、恐らく初めての試みだろう。
 
 しかしこれは二人称小説と言ってしまうと適切ではないように思える。
 二人称小説というよりも、三人称小説が一人称小説になる過程、と言ったほうが良いだろう。「淵の王」は、語るレベルと語られるレベルで、二つの物語が相互に絡み合いながら同時進行していたのだ。
 語るレベルでは、登場人物の視点に寄生しながらでなくては生きていけず、その上物語世界には介入できないような無力な存在である語り手が、その物語世界に入り込もうとする物語が進行していたのである。
 これは、超越的な視点を占める代わりに、物語には一切関与できない三人称的な語り手が、物語の登場人物の一人となろうとする話という訳だ。つまり、ナレーターからキャラクターへの移行物語である。
 
 三人称的な語り手は、物語に入り込むことができない。個々の物語世界からは超越した、特権的なポジションにいる、仮定された存在だからだ。これは、先ほどの言葉で言えば縮減機能を決定的に欠いた存在ということになる。そんな無力な語り手が、縮減機能を獲得して物語に参与しようとするお話が展開されていたのだ。
 
 ちなみにこれまでの話を整理すると以下のような表にまとめられる。
 

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 まず「淵の王」は縦軸の一番左にある通り、語り手の物語と語られる物語の二つの次元に分けられる。そして語り手のレベルでは物語へ参与する物語が描かれ、語られるレベルでは、可能世界の縮減と拡散、そのバランスをとる物語が描かれる。
 
 それではどうして中村悟堂の章においては、語り手の参与が成功したのだろうか、という疑問が当然のように湧くが、それはまた次の機会に譲りたい。
 
 
 これ以上詳細に踏み込む事は避けて全体の話をすると、私は舞城王太郎が新しい形式を取り入れたという点で、この作品を評価している。小説は、その内容と形式が不可分に関係しているが、以前舞城は九十九十九のように、物語の縮減機能という内容を描くために、延々とメタ化させるという形式をとっていた。しかし、「淵の王」が掲載された新潮2015.1には佐々木敦氏と渡部直己氏の対談もあり、そこには、近年ではメタ小説が探偵小説と同じただのパズルになっているという批判があった。このパズルという批判は、舞城の言葉では「娯楽産業」(これを言った時は愛媛川十三名義だったけど)となるが、娯楽産業に堕してしまったメタ形式を乗り越えるために、新しい形式を取り入れようと模索し、二人称という形式をとりこんで一定の成果を得たという点は高く評価できよう。
果たして舞城は今後どんな小説を世に出すのだろうか、とても楽しみで仕方がない。
 

 

 

淵の王

淵の王