かぐや姫の物語 動物世界/人間世界/月世界


高畑勲監督のかぐや姫は、私には「動物的なものの肯定」の映画に感じました。
あらすじは王道のかぐや姫ストーリーとあまり変わりませんが、細部にちりばめられたモチーフがそれを物語っています。

以下ネタバレを多く含みます。そして観ていることを前提として話を進めますが、ご容赦くだしあ。

 

山での生活(動物世界)

動物的なものを肯定している独特のモチーフの一つは、山での生活です。

山での生活の様子は竹取物語の原文ではなんの記述もありませんが、この映画において重要なポジションを占めていました。
山での生活は、その日食べるものを買うための労働に勤しんでいたり、命がけでキジをとったりという貧乏な生活でしたが、その分人間の活動の最も根本的な、生命の持続という活動に密接に関わっています。
そしてかぐや姫は、そのような生活をしたかったからこそ地球に憧れたのでした。
作中でかぐや姫は「わたしは生きるために生まれてきたのに…鳥や獣のように。」というような台詞を残していますし、山の生活者代表のような捨丸にーちゃんとなら幸せになれたと言っています。

 

ちなみに人間の子供が歌う童謡に現れる水車のモチーフも、この生命を持続させるために行われる活動の、反復性を表すためのモチーフでしょう。その日の食事を手に入れたからといって、また次の日からその日の食事を手に入れるために努力しなくてはいけませんよね。

 

かぐや姫の罪と罰

二つ目の独特なモチーフはかぐや姫の罪です。
かぐや姫が犯した罪とは、地球に行く事を望んだ事です。
それに対する罰は地球に送り込むことであり、一見するとそれ罰にならなくね?と思えます。
原文ではかぐや姫の罪は明らかにされないため、このかぐや姫の犯した罪には高畑勲監督の個人的思いがあるのでしょう。
そして映画を観ていくと、少しずつこの罪と罰が微妙な差異が分かります。

 

かぐや姫の罪

かぐや姫の罪は、地球で鳥や獣のような、「動物的な生活」を望んだことです。

それに対して罰とは、地球で「高貴な生活」を送ることだったのです。 かぐや姫と一緒に、父様(ととさま)は竹やぶの中から金(こがね)が大量に入った竹を見つけます。 これを父様は、かぐや姫に高貴な生活をさせろという天啓ととらえ、かぐや姫と一緒に都に引っ越します。 こうなることを見越して月の住人たちは金を与えたのでしょう。


高貴な生活(人間世界)

都での高貴な生活とは、動物的な生活から離れ、人間同士のお金や恋愛、社会的地位の上昇といった欲望のゲームに従事する生活のことです。
女は社会的に地位の高い男と結婚することが一番だという前提があり、より地位の高い男と結婚するよう琴やらなにやら教育されます。相模は「女性の幸せは位の高い男性にもらわれること」といって高貴な女性になるための教育をしますし、一番地位が高い人間であるミカドも、「自分にもらわれて幸せに思わない女はいない」というような発言をしています。


女は男を地位という、そのポジションにさえついていれば誰でもいいというような交換可能なものとしかみていないのに対して、男たちは女をお金で換算可能な宝物としてしか見ません。 
これは五人の男がかぐや姫を口説く時に、全員がかぐや姫の美しさを宝物に喩えたことに象徴的です。
そのような相手を地位や物として見る高貴な生活は、繰り返しますが動物的な生活から離れます。
相模はかぐや姫に高貴な女性は汗をかくことがないから眉毛を抜いても大丈夫だと言い、更には高貴な女性は口を開けて笑ったりしないからお歯黒にしてもいいんだと言います。
それに対してかぐや姫は「高貴の姫君は、人ではないのね」と漏らします。
ここでいう人とは、かぐや姫の求めた、人間の中の動物的な部分のことです。

 

そしてこの映画で最も迫力のあるシーンである、かぐや姫の疾走シーン。

これももちろん原文にはありません。原文では三日三晩宴が続いたことに触れる程度です。

映画では宴の中で酔っぱらったおっさん二人が無理矢理かぐや姫の姿をみようと無礼な行為に及ぼうとします。これは完全にかぐや姫に対する冒涜であり、相手を人として尊重していません。この時にかぐや姫はこの人間世界から逃げ出し、動きにくい十二単も全て脱ぎ捨て、動物のように野山を疾走することを夢想します。


「生きている手応え」

どうしてかぐや姫が動物的な生活を求めたのでしょうか。
それは、そちらの方が「生きている手応え」があるからです。
高貴な生活で重要になってくるのは地位やお金です。ですがその二つに重きを置くと、人間は入れ替え可能なニセモノになります。地位はその地位さえあれば誰がそこについていても大した違いはありませんし、お金は本質的に何かと交換するものです。
だからこそかぐや姫は自分が恋愛の対象、高貴な生活での恋愛の対象になった際に、「自分はニセモノなのに、どうしてみんな必死になるんだー」と嘆きます。台詞はうろ覚えですが、中納言が死んだ後に、「私もニセモノ」と言って行き場のない衝動をニセモノの庭をぶっ壊すことによって発散していました。

かぐや姫にとってホンモノとは、ニセモノとして作った庭のオリジナル、つまり山での生活です。
山での生活はキジを追いかけて崖から落ちたりと、生死といつも隣り合わせです。
山で行う労働もその日のご飯となるタケノコをとったりと、自分の生死に直結しています。
そのような「生きている手応え」が得られる生活こそがかぐや姫が望んだ生活であり、
高畑勲監督なりの現代社会に対する警鐘です。


かぐや姫の罰

さて、かぐや姫の罪と罰に話を戻すと、罰とは高貴な生活を経験させること、
より正確に言うと動物的な生活の後に、不可避に高貴な生活へと移行する経験をさせることです。
そして私の考えでは、あのような高貴な生活を突き詰めたものが月の住人の生活です。
高貴な生活では、あらゆるものを交換可能な物、社会的地位を高めるための手段としてとらえるような合理性と、空虚な対象(ニセモノ)を求め続ける欲望が支配していました。
そのような生活で更に合理性を押し進め、動物的な欲求も人間的な欲望も超越したところに誕生するのがあの悟りきった菩薩のような月の世界です。
つまり一度合理性への階段を上ると、動物的な世界に安住し続ける事はできない、という断念を経験させることによって、二度と動物的な暮らしを願わないための教育があの罰なのです。

最終的にかぐやはそのような高貴な生活を突き詰めた、地球以上に「生きている実感」のない世界へと連れて帰られます。
連れて帰られるとはいえども、かぐや自身が刺さるあごを持った顔面凶器のミカドにハグされた時に「こんな世界いたくない!」と願った事がきっかけです。
月の住人による教育はある程度うまくいったのでしょう。
しかしラストシーンで羽衣を着て記憶がなくなったにも関わらず、地球を振り返るという何気ないシーンの中に、やはり人間は「生きている実感」を持った生活を求めざるを得ない、という強い思いが感じられます。

それにしてもこの考えでいくと、月は記憶まで操作して人間を管理するとてつもない社会ですね。
その社会にうまく適応している間(生きる実感がなくても生きていける間)は幸せかもしれませんが、ひとたびそれから外れたことをすると、徹底的に月色に染められる教育を、しかも罰という名目で受けさせられるという、恐ろしい思想統制社会ということになります。

過度に人間の中の動物的な部分を否定するのもどうしたもんでしょうねえ。

ザ・マスターを観ました。

「人は何かマスターという存在なしに生きられるか?もしその方法があるなら教えて欲しい。我々誰もがこの世をマスターなしで彷徨えるとは思えないから。」
ポール・トーマス・アンダーソン監督


ザ・マスターという映画を観ました。


このブログでは、ポール・トーマス・アンダーソン監督の「人は何かマスターという存在なしに生きられるか?」という問いについて、「やっぱりマスターは必要だよね」と共感を示しつつそれではマスターとは何だろうか?ということを考えてみたいと思います。

その際、マスターとは人生に意味を与える根拠となる、確かなものだという仮定を置きます。


あ、ネタバレを多く含むので、まだ観ていない方は要注意です。


◯あらすじ

この映画のあらすじを簡単に説明すると、第二次世界大戦の帰還兵で、PTSDを負った主人公フレディが、コーズという怪しい団体を運営するランカスター・ドッド(通称マスター)と出会い、そして別れる物語です。


フレディは砂で作った女性に欲情したりロールシャッハテストではすべてにプッシーやらペニスと答える性欲モンスターです。
素晴らしいですね。
さらには撮影技師として働いても、気に入らない客にはケンカを売る典型的な社会不適合者です。


ドッドは作家、医者、原子物理学、理論哲学といった数々の仕事をこなす一方で、コーズという一見新興宗教に見える団体を立ち上げ、マスターと崇められる人物です。

 

 

◯ドッドについて

さて、まずドッドについて見ていきましょう。 ドッドはコーズの教祖として振る舞うことで、周りの人に確かなるものを与えようとした人でした。 自分自身が教祖として振る舞うことによって、ドッドという確かなるものを得た周りの人を分析し、人間にとって何が確かなるもの足り得るか?ということを理論的に追求しようとした人です。

彼はジョン・モアというフレディにぼこぼこにされる可哀想なインテリとの論争の中で 、現在ある確からしいことについて強烈な疑義を申し立てます。 君は観た事もないのにピラミッドを信じるか?とかですね。
つまりドッドも確固たるマスターを持っていなかったのです。その結果として、シンナー的な何かが入ったフレディ特製酒にハマったり、妻に手コキされながらフレディ特製のお酒を辞めて♡とお願いされるとそれを承諾してしまいます。
前者では人間の生化学的な反応が、後者では性欲という人間の動物的反応が確かなるものとして機能しています。


しかし人間は動物ではなく霊的な存在であって、感情に支配されないと考えるドッドは、それらをマスターとは見なしません。
これは現在のマスターと理想のマスターという二つのマスターの可能性を示唆します。

ドッドは自分のやっているコーズがマスター足り得ることについても、疑念を抱いていたようです。
ドッドのコーズに関する2冊目の本、「割れた剣」が出版された後に、ファンにこう話を持ちかけられます。
「プロセシングの基礎になる言葉を変えたのね。想像できるかに。今までのメソッドでは想起できるかと聞いた。想像では意味が違う」
それに対してドッドはブチ切れます。
やはり自分でも、想起は実は想像であり、根拠がないことに自覚的であったのでしょう。

◯精神分析家としてのドッド

次にドッドのマスターとしての振る舞い方に着目してみましょう。
ドッドがマスターとして振る舞う方法には二つのものがあります。
一つ目はプロセシングです。
プロセシングとは、規則的な質問をすることによって「過去の人生」をディテールを持って想起し、追体験させることです。
ドッドはプロセシングについて、先ほども出てきた可哀想な男ジョン・モアとの論争の中で「過去の人生を遡り、病気の発生時点で治す」「心に宿る欠陥を探し、完璧な状態にする」「隠されたものを明らかにすること」と言います。
数兆年前の記憶がどうとかという超絶胡散臭いところを無視するならば、これはとても精神分析学的な手法です。


精神分析学における症状の治療は、抑圧されたものを意識化することです。つまりドッドの言葉で言えば「隠されたものを明らかにすること」に当てはまります。
ドッドは精神分析家として振る舞いました。
これは正確にはドッドがマスターとして振る舞ったことを意味しません。
なぜならばこの場合、抑圧に向き合い、再び意識化されたものこそが真実=マスターだからです。
ドッドは抑圧されたものの意識化が真実を生み出すという構造を利用し、マスターを生み出そうとしていたのです。
だからこそドッドは、マスターになろうとした人ではなく、マスターとは何かと追求した人なのです。

ちなみに他の発言に触れると、ドッドは「隠されたもの」を「病気の発生時点」と考えていました。
精神分析学において抑圧は、出会いの忘却(=発生時点の忘却)によって起こるそうです。
つまり他者との出会いを忘却(=抑圧)し、他者の欲望を自分の欲望と勘違いすることによって、無意識が形成されます。
ドッドがプロセシングにおいて出会いを重要視したのも、これが理由でしょう。
ドッドは映画の最後、過去の人生でのフレディとの出会いについて語ります。プロシア軍に封鎖されたパリで伝書鳩通信担当として一緒に働いてたらしいです。客観的にそれが真実かどうかはさておき、主観的には真実として機能しました。
ドッドは抑圧に向き合い、フレディとの出会いという真実を見いだしたからこそ、フレディとの別れを決断したのでしょう。ドッドのフレディをなぜかよくわからないけど求めてしまうという症状は、抑圧された真実を暴くことによって治癒されました。
その証拠にフレディは涙を流していたにもかかわらず、ドッドは泣きません。

ドッドの言う「欠陥」とは症状のことです。その症状を引き起こしている出会いの経験を追体験し、治療して完璧な状態にしようということでしょう。

◯母としてのドッド


ドッドがマスターとして振る舞う方法の二つ目は、母としてです。
ここで言う母とは、精神分析学で有名なエディプス・コンプレックス図式での母のことです。
一見するとドッドは父として振る舞っているように思えます。
具体的に言うと子に対して罰則や規則を教え、社会化させる役割です。
確かに三たび登場する可哀想な男ジョン・モアにトマト(?)を投げたり、ドッドを捕まえに来た警察に反抗するフレディを叱っている様子は父性的なものに写ります。
しかし根本的な、そのような父として振る舞うドッドの根本的な動機は母的なものです。
フレディの反抗もむなしく、フレディと一緒に勾留されたドッドは、暴れて暴れて便器やら何やらを壊すフレディに向かって、「お前を好いてくれる人間は私だけだ!」と叫びます。
これはフレディの母宣言であると考えてよいでしょう。

以上のことから、マスターとは父的なものも母的なものも含んだ概念であるということが分かります。
ここにおいて、マスター=父であるという単純な形式化はできなくなりました。

◯フレディはロリコンか?


フレディはPTSDという症状を持っており、働くことができません。
フレディは水兵でしたが、彼のPTSDを単純に戦争の責任にすることはできません。
なぜならば、フレディが戦争に行ったのは、ドリスという少女との恋愛が原因だからです。
ドリスは映画の中では明確に年齢を示されませんが、フレディと恋に落ちていた時点ではおそらく16歳前後です。
16歳になったという発言がありますが、フレディの回想シーン(回想といっても、夢に近いもの。この理由はあとで説明します)なので、確証にはなりません。


つまりフレディはロリコンだったのです。(ちなみにドリスは全然16には見えません泣)


フレディはロリコンでしたが、昔は今ほど社会不適合者ではありませんでした。
どういうことかというと、フレディはドリスとの恋愛を社会的に誤った行為だという自覚がありました。
つまりある程度父の介入を受け、社会性というものを身につけていたのです。
だからこそドリスが大人になるまで待つことにし、ドリスと別れたのです。

その際水兵になったのにも理由があります。
この映画において船の上は、通常の社会から離れたところ、つまり父の介入が及ばないところであるとされています。
船上でのフレディとドッドの妻エイミーとの会話がこれを裏付けており、エイミーは、海は社会から離れて夫が執筆に専念できる場所と言っていました。

フレディのドリスへの好意は、社会的には許されないことでした。
だからフレディはそのような社会から離れ、船の上に居続けることによって、まだドリスのことが好きなんだというメッセージを送っていたのです。16歳への愛がロリコンかどうかはさておき、素晴らしいロリコンです。

このことは人間にとって父が不在になるためには、戦争のような大規模な出来事がなくても、日常生活を送る中でいとも容易くあり得るということを意味します。

◯フレディ、どこまでも中途半端


といってもフレディの家庭は父は飲み過ぎで死亡、母は精神病院に収容という家庭です。戦争ほどかけ離れていなくても、特殊な環境です。
やはりそのような家庭状況はフレディに影響を及ぼしていました。
先ほど私はフレディは「ある程度」父の介入を受けた人間だと言いました。その、「ある程度」である理由について考えたいと思います。

フレディは映画の中で叔母とセックスしたと白状しています。(3回も!)
もしもこれが母親ならば、フレディにおいて父は完全なる不在になります。なぜならば父は母親への近親相姦を禁止する役割だからです。
父の介入とは社会からの要請の代表なので、父が死んでいたとしても社会の中で暮らすうちに、少なからず父の介入はあります。しかしそれは身近な父がいなかった故に、完全ではなかったのです。 
それと同時に母が精神病院に収容されていたため、母的なものの役目の一部を叔母が担いました。しかし叔母は叔母であって母親ではありませんし、その後どこにいるかもわからないそうです。母の役割を完全には果たすことができませんでした。案の定というか、父の介入が不完全であったが故にセックスをしてしまいます。
つまり、フレディにとっては母も父も半不在だった。中途半端にしか機能していなかったのです。

◯母を求めるフレディ


フレディはそのようなマージナルな人間であったことを念頭に置いて、話を進めたいと思います。

精神分析学のエディプス・コンプレックスには、順番があります。
まず母親を所有化、あるいは同一化しようとし、次に父が介入します。
この時に所有化では子供は父の立場に、同一化では母の立場になろうとするという違いはありますが、順番は同じです。
まずは母への同一化、そして父による分離という順番です。
父も母も不完全であったフレディにとって、まず最初に母を求めることは自然なことです。
フレディが砂で作った女性のそばに寄り添うモチーフは何度も頻出します。
フレディは母的であるものを求めて、ドリスに恋したのです。

なぜそれがロリコンという形をとったかについてはとても難しいです。
フレディは叔母とセックスをしていたことからわかるように、本質的にロリコンであるわけではありません。
しかし、叔母とセックスをしたところで自分から離れていくという経験から、母的なものを求める対象が子供に向かったと考えられます。
つまり、同一化している父としての立場を更に徹底しようとしたのです。
直感的に分かる通り、親と子の間には決定的な格差があります。子は親が提示するものを所与のものとしてしか受け取れないという一種の暴力性です。この暴力性を利用して、自分の愛情を拒まない真に母的なものを求めて、大人であるフレディは子供であるドリスに惚れたのでしょう。

◯去勢されていないフレディ


今まで述べてきた通り、フレディにおいて父の介入は不完全に終わっています。それはフレディの行動の至るところに読み取れます。
例えばフレディはどこでも屁をこきます。
自分の好きな時にしか屁をこけないという行為は、肛門の統制がまだとれていないことを表しています。
フロイトは「エディプス・コンプレックスの崩壊」において、去勢が達成されるにあたって、「全ての少年が直面しなければならない二つの経験」を示しています。
それは、「母親の乳房を奪われること」と、「腸の内容物を毎日排出するように強いられること」です。
これが意味するところは、去勢は母との同一化から分離し、自己の身体を認識し、統制することで遂行されるということです。
フレディの屁は、まだ自分の体を統御できていない段階、去勢されていないことの象徴だったのです。
全く関係ないですが、精神分析って真面目な顔をしてペニスとか屁について語るとてつもない学問ですね。

それからもう一点あげるならば、映画の最初の方であった東洋系の男性に「親父に似ている」と話しかけ、フレディ特製酒を振る舞い、命の危機にさらしてしまったお話がそれです。
フレディはプロセシングを受けている最中に、そいつを殺してしまったかもしれないと戸惑いを吐露します。
親父(に似ている男性)を殺してしまった「かもしれない」。
実際にその男性が死んでいれば、父殺しが達成されたことになり、父不在になりますが、フレディでは「かもしれない」にとどまります。
やはりフレディは父の半不在、とても中途半端でマージナルな存在です。

◯フレディとドッド


さて、二人がどういう人間か分かったところで、次に二人の関係に焦点を当てたいと思います。
まず、ドッドはフレディを父が不在のまま生きていける人間だと認識していました。
しかし今まで見てきた通り、フレディは父ではなく母を求めていただけであって、父が不要なわけではありません。
現にフレディはドッドからコーズ式訓練を受け、その後、昔よりかは社会的になります。(ビラを配ったり客に挨拶したりカメラマンしたり)
コーズ式訓練を受けている途中に、フレディが砂で女性を作っているところに波がやってきて邪魔をするシーンが挿入されますが、これは砂の女性=母を求めているフレディに、外部からどうしようもない圧力=波がやってきて断念する去勢のモチーフとみなしてよいでしょう。

ちなみにドッドの去勢の試みは、フレディが母との同一化が不完全であった(=砂で作られた女性であった)ことによって失敗に終わります。
フレディにはまず母が必要だったのです。
その結果として、やはりというかフレディはまたビルという可哀想な男2号をぼこぼこにします。

◯フレディとドッドのすれ違い


レディへの去勢が成功しなかった経験から、ドッドはフレディを父不在でも生きていける自由な人間だとみなします。
フレディはただ単に母を求めていただけなのに。
その違いが象徴的に現れているのは、砂漠で目標到達ゲームだ!とか言ってバイクを乗り回すシーンです。
目標到達ゲームとは、自分でどこか目標を定めそこまでバイクで走り、また帰ってくるという謎なゲームです。(ちょっとやってみたい)

そこでドッドは父としてフレディに目標まで行き、そして帰ってこいという命令を下します。
フレディはバイクに乗ったままどこかへ行ってしまい帰ってきません。(爆笑)
実のところフレディは、そのままドリスに会いに行っていたのです。

◯フレディとドリスのすれ違い


しかしドリスは既に地元の醜男ジム・デイと結婚してアラバマに住んでおり、その上子供をもうけています。
ドリスの母は手紙を送るから住所を教えてと言いますが、フレディは「手紙は書きません」と断ります。
水兵時代にも、フレディはドリスからの手紙を受けとり、返事を書いたようですが、それを送る事はしなかったようです。
これも大変象徴的です。手紙は、メッセージを送った相手がどのような反応をするのかという情報がありません。
つまり相手が自分の手紙を欲していて、その返事をくれるという予測、相手が自分を欲望しているという信頼がなければ手紙を送る事はできません。

そして欲望とは、他者から欲望され、更にはその他者との出会いが忘れ去られて初めて形成されます。
母とはその欲望の転移を起こす役割です。母親からの欲望された経験がないフレディに、どうしてドリスが自分を欲望していると信じることができるでしょうか。

ドリスは欲望される経験をした。しかしフレディはしなかった。

この手紙を書けるドリスと、手紙を書けないフレディの対比は、プロセシングでのフレディの想起に顕著に現れます。
前にそのフレディの想起シーンが、想起ではなく夢に近いものと書きましたが、それについても説明します。
ドッドから質問を受け、フレディは自分の抑圧されたものに向き合います。
フレディはどうしてドリスのもとに戻らないのかという質問に対して、何度も分からない!と激昂します。抑圧されたものは、ドリスの元に戻らない理由なのです。
フレディはドリスに会いに行く自分を想起します。実際にあった過去を想起しているわけではありません。フレディは水兵の格好をしており、ドリスと離れる前には水兵でなかったので、やはりこれは想起でなくフレディの夢と考えた方が自然でしょう。


そしてその夢の中で、ドリスは水兵であるフレディを肯定します。具体的にはドリスからキスします。
フレディは戦争の中で日本人を何人も殺し、PTSDを持っていたことを考えると、そのような人を殺してしまった自分をドリスは受け入れてくれるだろうか、と悩んでいたのでしょう。
そしてそのままの自分をドリスが肯定してくれることを夢見たのです。
この時にドリスは歌を歌います。
「母さんに手紙を書いた。父さんに手紙を書いた。そして今君にも書いてる。母さんのことは信じてる。父さんのことも信じている。だから君のことも心から信じたいんだ」と。
ドリスは母に欲望された経験を持っており、信じている。だから手紙を書けるのです。そしてその欲望を今度はフレディに向けています。

けれどもフレディは母に欲望された経験がないから、信じることができません。

◯再びフレディとドッドのすれ違いへ


さて、話が大きくずれてしまいましたが、目標到達ゲームの話でした。
フレディはドッドの命令通り、自分の目標である母=ドリスの元に向かいました。
けれどもドッドからすれば、父の命令を受け付けなかったと見えることでしょう。

その後フレディは映画を観ながら夢をみます。
ドッドから帰ってきてくれと頼まれる夢です。
フレディとドッドの最初の出会いが分かったから、と。
フレディは母を手に入れられていないため、まだ目標に到達できていません。しかしドッドの命令が回帰してきたため、それに従います。

つまりフレディは、あくまでも父の命令に従っています。
夢と分かっていながら、お土産にクールまで買って行ったりします。
しかしドッドは、フレディのことを父が不在でもなんとかなる、少なくともその可能性がある人間と考えていたため、「君はマスターに仕えない最初の人間になる」と言って返してしまいます。
フレディは涙を流し、ドッドは涙を流しません。

これは母というマスターを求めた男と父というマスターを求めた男のすれ違いの物語だったのです。

◯終わりに


そろそろ眠くなってきたので書くのをやめたいのですが、現在このブログを書くためにザ・マスターを見返していて、ラストシーンにさしかかっています。
ここに雑感や他に書きたかったことを記したいと思います。
ドッドと別れた後、フレディはナンパした女の子とセックスをしながら、プロセシングのようなやりとりを交わします。
今までフレディのセックスシーンはありませんでした。映画の序盤でそのチャンスがあっても、彼は爆睡してました。

ラストシーン、フレディは砂で作った女性の隣に横たわります。

お、エンディングが流れ出しました。歌詞はこんな感じです。
「あなたとワルツを踊っていたの 夢のような甘いメロディーで 相手を変えてと声が聞こえて あなたは私から離れて行った もう私の腕にあなたはいない ひとり寂しくフロアを見つめ 相手を変えて踊り続ける もう一度あなたを抱きしめるまで ほんの一瞬踊っただけで すぐに離れてしまったの 短いけれど素晴らしい瞬間に 私の心に何かが起きたの でも私の腕にあなたはいない 一人寂しくフロアを見つめ 相手を変えて私は踊り続ける もう一度あなたを抱きしめるまで 相手を変えて踊り続ければ いつかあなたが私の元に戻るわ 愛しいあなたその時がきたら もう二度と相手を変えないわ」
これはもう僕には、母から欲望される経験を、抑圧、そして最終的に回帰する過程の歌にしか聞こえません。

僕はこのブログをマスターとはなんであるか?という疑問とともに書き始めました。
マスター、つまり「確かなるもの」は父ではなく母であるという結論に至ったことになります。
複数化した父は自然と権力が弱まります。それは精神分析に置ける、「子供は母親がもっとも確実な存在であり、父親はつねに不確実な存在」(フロイト、エロス論集所収「神経症者の家族小説」より)と重なります。
父が単数的である場合はマスター足りえますが、複数化すると母が支配的になるのではないでしょうか。
普通に考えても、父親なんて精子を出すだけの存在でしかないのですから、他の男性も計算に入れると、本当にその人が父親か怪しいものです。

という訳でもう寝ます。おやすみなさい。