かぐや姫の物語 動物世界/人間世界/月世界


高畑勲監督のかぐや姫は、私には「動物的なものの肯定」の映画に感じました。
あらすじは王道のかぐや姫ストーリーとあまり変わりませんが、細部にちりばめられたモチーフがそれを物語っています。

以下ネタバレを多く含みます。そして観ていることを前提として話を進めますが、ご容赦くだしあ。

 

山での生活(動物世界)

動物的なものを肯定している独特のモチーフの一つは、山での生活です。

山での生活の様子は竹取物語の原文ではなんの記述もありませんが、この映画において重要なポジションを占めていました。
山での生活は、その日食べるものを買うための労働に勤しんでいたり、命がけでキジをとったりという貧乏な生活でしたが、その分人間の活動の最も根本的な、生命の持続という活動に密接に関わっています。
そしてかぐや姫は、そのような生活をしたかったからこそ地球に憧れたのでした。
作中でかぐや姫は「わたしは生きるために生まれてきたのに…鳥や獣のように。」というような台詞を残していますし、山の生活者代表のような捨丸にーちゃんとなら幸せになれたと言っています。

 

ちなみに人間の子供が歌う童謡に現れる水車のモチーフも、この生命を持続させるために行われる活動の、反復性を表すためのモチーフでしょう。その日の食事を手に入れたからといって、また次の日からその日の食事を手に入れるために努力しなくてはいけませんよね。

 

かぐや姫の罪と罰

二つ目の独特なモチーフはかぐや姫の罪です。
かぐや姫が犯した罪とは、地球に行く事を望んだ事です。
それに対する罰は地球に送り込むことであり、一見するとそれ罰にならなくね?と思えます。
原文ではかぐや姫の罪は明らかにされないため、このかぐや姫の犯した罪には高畑勲監督の個人的思いがあるのでしょう。
そして映画を観ていくと、少しずつこの罪と罰が微妙な差異が分かります。

 

かぐや姫の罪

かぐや姫の罪は、地球で鳥や獣のような、「動物的な生活」を望んだことです。

それに対して罰とは、地球で「高貴な生活」を送ることだったのです。 かぐや姫と一緒に、父様(ととさま)は竹やぶの中から金(こがね)が大量に入った竹を見つけます。 これを父様は、かぐや姫に高貴な生活をさせろという天啓ととらえ、かぐや姫と一緒に都に引っ越します。 こうなることを見越して月の住人たちは金を与えたのでしょう。


高貴な生活(人間世界)

都での高貴な生活とは、動物的な生活から離れ、人間同士のお金や恋愛、社会的地位の上昇といった欲望のゲームに従事する生活のことです。
女は社会的に地位の高い男と結婚することが一番だという前提があり、より地位の高い男と結婚するよう琴やらなにやら教育されます。相模は「女性の幸せは位の高い男性にもらわれること」といって高貴な女性になるための教育をしますし、一番地位が高い人間であるミカドも、「自分にもらわれて幸せに思わない女はいない」というような発言をしています。


女は男を地位という、そのポジションにさえついていれば誰でもいいというような交換可能なものとしかみていないのに対して、男たちは女をお金で換算可能な宝物としてしか見ません。 
これは五人の男がかぐや姫を口説く時に、全員がかぐや姫の美しさを宝物に喩えたことに象徴的です。
そのような相手を地位や物として見る高貴な生活は、繰り返しますが動物的な生活から離れます。
相模はかぐや姫に高貴な女性は汗をかくことがないから眉毛を抜いても大丈夫だと言い、更には高貴な女性は口を開けて笑ったりしないからお歯黒にしてもいいんだと言います。
それに対してかぐや姫は「高貴の姫君は、人ではないのね」と漏らします。
ここでいう人とは、かぐや姫の求めた、人間の中の動物的な部分のことです。

 

そしてこの映画で最も迫力のあるシーンである、かぐや姫の疾走シーン。

これももちろん原文にはありません。原文では三日三晩宴が続いたことに触れる程度です。

映画では宴の中で酔っぱらったおっさん二人が無理矢理かぐや姫の姿をみようと無礼な行為に及ぼうとします。これは完全にかぐや姫に対する冒涜であり、相手を人として尊重していません。この時にかぐや姫はこの人間世界から逃げ出し、動きにくい十二単も全て脱ぎ捨て、動物のように野山を疾走することを夢想します。


「生きている手応え」

どうしてかぐや姫が動物的な生活を求めたのでしょうか。
それは、そちらの方が「生きている手応え」があるからです。
高貴な生活で重要になってくるのは地位やお金です。ですがその二つに重きを置くと、人間は入れ替え可能なニセモノになります。地位はその地位さえあれば誰がそこについていても大した違いはありませんし、お金は本質的に何かと交換するものです。
だからこそかぐや姫は自分が恋愛の対象、高貴な生活での恋愛の対象になった際に、「自分はニセモノなのに、どうしてみんな必死になるんだー」と嘆きます。台詞はうろ覚えですが、中納言が死んだ後に、「私もニセモノ」と言って行き場のない衝動をニセモノの庭をぶっ壊すことによって発散していました。

かぐや姫にとってホンモノとは、ニセモノとして作った庭のオリジナル、つまり山での生活です。
山での生活はキジを追いかけて崖から落ちたりと、生死といつも隣り合わせです。
山で行う労働もその日のご飯となるタケノコをとったりと、自分の生死に直結しています。
そのような「生きている手応え」が得られる生活こそがかぐや姫が望んだ生活であり、
高畑勲監督なりの現代社会に対する警鐘です。


かぐや姫の罰

さて、かぐや姫の罪と罰に話を戻すと、罰とは高貴な生活を経験させること、
より正確に言うと動物的な生活の後に、不可避に高貴な生活へと移行する経験をさせることです。
そして私の考えでは、あのような高貴な生活を突き詰めたものが月の住人の生活です。
高貴な生活では、あらゆるものを交換可能な物、社会的地位を高めるための手段としてとらえるような合理性と、空虚な対象(ニセモノ)を求め続ける欲望が支配していました。
そのような生活で更に合理性を押し進め、動物的な欲求も人間的な欲望も超越したところに誕生するのがあの悟りきった菩薩のような月の世界です。
つまり一度合理性への階段を上ると、動物的な世界に安住し続ける事はできない、という断念を経験させることによって、二度と動物的な暮らしを願わないための教育があの罰なのです。

最終的にかぐやはそのような高貴な生活を突き詰めた、地球以上に「生きている実感」のない世界へと連れて帰られます。
連れて帰られるとはいえども、かぐや自身が刺さるあごを持った顔面凶器のミカドにハグされた時に「こんな世界いたくない!」と願った事がきっかけです。
月の住人による教育はある程度うまくいったのでしょう。
しかしラストシーンで羽衣を着て記憶がなくなったにも関わらず、地球を振り返るという何気ないシーンの中に、やはり人間は「生きている実感」を持った生活を求めざるを得ない、という強い思いが感じられます。

それにしてもこの考えでいくと、月は記憶まで操作して人間を管理するとてつもない社会ですね。
その社会にうまく適応している間(生きる実感がなくても生きていける間)は幸せかもしれませんが、ひとたびそれから外れたことをすると、徹底的に月色に染められる教育を、しかも罰という名目で受けさせられるという、恐ろしい思想統制社会ということになります。

過度に人間の中の動物的な部分を否定するのもどうしたもんでしょうねえ。