ハンナ・アレント「人間の条件」について 1

ハンナ・アレント「人間の条件」を読んだので、その備忘録として、自分の理解を深めるために一章ずつその要約やら雑感を書きたいと思う。
僕は自分に理解できるよう分かりやすく書くし、他の人もこの本を読まずして内容が分かるよう書く事を心がけるため、暇つぶしにでも読んでいただければ幸いである。

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

 

 

第一章 人間の条件

人間の条件とは?

人間の条件!と第一章を銘打っているものの、アレントは人間の条件に明確な定義を与えていない。

というよりも、人間の条件は多岐に渡っているため、これが人間の条件だ!という断定が不可能になっている。
出生、多数性、世界など多くのものを人間の条件としつつ、更には現在地球に暮らしているからこそ存在するそのような条件も、宇宙で暮らすようになれば変化するというようなSFチックな妄想も膨らませている。
そのように決定がとても難しい人間の条件についてアレントが捻り出した定義とは、「人間は条件づけられている」ということである。人間は自分に関わるもの全てを、自分の条件としてしまう、それこそが人間の条件である、と。

しかしこれは人間の条件は、条件づけられていると言っているに過ぎず、単に同語反復である。
ここで当然のようにどうして人間は条件づけられているのか?という疑問が浮かぶが、それについては考えることは別の機会に譲り、アレントと同じ前提を受け入れよう。

 

活動の3分類

この章でアレントは人間は条件づけられているということを前提として、そんな条件づけられた人間の活動を三つに分類する。
労働・仕事・活動である。

労働

労働は自分の生命、そして種としての生命を持続させるために行われる活動である。
一例としてりんごを食べることが挙げられる。しかし人間は、いくらお腹いっぱいりんごを食べたところで、数時間経てばまたお腹がすいてしまう。だからまたりんごを食べる。このように労働は、反復性を持っている。

そしてこの労働に関する物、先ほどの例で言えばりんごがそれであるが、りんごは少し放っておくとすぐに腐ってしまう。つまり持続性がない。
この時間という概念の中で考え、それに対する耐久性というものはアレントの三分類の根本である。

仕事

次に仕事。仕事はイスを作るとか机をつくるとか、ある程度持続性があるものを作る活動である。ある程度と言ったが、正確に言うと自分の寿命よりも長い期間である。自分が死んだ後も残り続けるものを作ることが、アレントの言う仕事なのである。
今僕たちは生きている。身の回りを見てみると、先人が作ったものに囲まれている。先人が作り、そして死んでしまってもなお残り続けているものに囲まれている。それを彼女は世界と呼んだ。
人間は世界の中に生まれる(彼女の言葉では出生する)。
そして仕事をして次の世代にも世界を残す。

活動

最後に活動である。
活動は時間という条件ともう一つ、多数性という条件が関わってくる。
アレントが活動として名指すものは政治であるが、アレントが政治という時、その意味はかなり独特である。
彼女の語彙に従うと、政治とは多数性の前に姿を現すことである(出現)。
ここでは多数性を、自分とは違う考えを持った人が大勢いる空間と考えておいて問題ないだろう。
そしてそのような多数性の前に姿を現すとどうなるか。自分のとった行動が、自分が考えていた意図と違う意味でとらえられてしまう事であろう。
例えば英語が出来ない日本人がアメリカに行って麻生という元首相の名を口にしたとしよう。それを英語圏の人はass holeと聞きとること請け合いである。
そして、そのように誤認されることこそが活動なのである。
となると、活動の行為者自身には、自分の振る舞いの意味を決定することが不可能になる。
振る舞いの意味を決定する、つまりその人の活動について物語を作ることは、活動している当の本人以外の人ということになる。それをアレントは歴史家と呼んだ。
そしてこの物語が、その人は誰であるか(=「正体」フー)を決定する。
これは自分が誰であるかを模索するような実存を探る行為とは異なる。
なぜならば、先ほど申し上げた通り、活動の意味は当の活動者自身からは隠されているため、それを自分の物語として引き受けることができないからである。

どうして活動者本人は自分で活動の意味を決定する事ができないか。そのような誤認はなぜ起こるのか。
それは意味の時間的持続性に関わっている。
活動者の振る舞いは、その人自身が死ねば終わる。そしてその振る舞いの意味を伝承する作業は、必ず他の人に譲られる。
100人の村の中で活動をすれば自分だけが活動者で、他の人は全て伝承者(歴史家)である。
さて、自分対99人、どちらの方がより長く生き残るだろうか。
これは別に活動者が死んだ場合だけではない。活動者が表の舞台から立ち去るとき、私的生活に引きこもるときも同じ事である。これはまあその活動者がいないときになされる伝承のことなので、うわさ話みたいなものだ。
活動者は自分の知る由もないところでされているうわさ話に口を出す事は出来ない。
なんだかものすごく俗な話になってきたのでこの話はこの辺で辞めにしよう。
とにかく本質としては、意味の時間的持続性の活動者と歴史家間の差異が、活動者による物語の作成を不可能にしている(物語の暴露的正確)。

それでは活動は何のためにあるのか。それは多数性を持続させるためである。
これもやはり同語反復的に聞こえる。多数性は多数性のためにあると言っているようなものだからだ。
多数性は多数性のためにあるかもしれない。しかし人間が多数性を求めてしまうことは揺るがしようのない事実である。
となると、同語反復に陥らざるを得ないもの、それ以上原因を遡ることができないもの、そしてそれを求めてしまうこと、
それ自体が人間の条件なのである。

以上

(書いてから思ったが、一章の範囲を超えて説明している…まあいいか)